はじめに
私は、個人的には、高校の現代文に関し、次のルールがあると考えています。
- 筆者が書く間に何を考えているかは、どうでも良い。
- 語句は、意味が分かれば良いというわけではない。
「現代文」の目的
「現代文」学ぶ目的(の1つ)は、「赤の他人」とコミュニケーションをとるということです。
「赤の他人」とは、自分が生きる上で大切ではない他人とか生きていても死んでいても自分の人生に影響のあまりない他人を意味します。
人は、日本だけでも、120,000,000人以上います。1人の人間が全員に対し同じように親切にすることは、不可能です。また、1人の人間の生死が120,000,000人以上の人々に直接の重大な影響を与えることも、ありません。
「現代文」のコスト
中学生・高校生、国・自治体は、現代文を勉強するのに、多大なコストを負担しています。中学生と高校生は、6年間の間に文章を何時間も読まなくてはなりません。また、国や自治体は、国語科教員の雇用・学習指導要領の作成・教科書制度の維持など、膨大な費用をかけています。
そこまでして「現代文」をやらなければならないのは、なぜでしょうか。
中学生や高校生の大半は、物心がついた時から日本語を使ってきたのだから、日本語の文章も大体は読めるはずだと言いたくなりそうです。また、「現代文」が役立つのなら、国や自治体ではなく民間企業が教えれば良いとも思います。
「赤の他人」との共存
国家という集団の中には、あなたから見て、何を考えているのか分からないような「赤の他人」が数多く存在します。それでも、政治・市場・法という場面では、その存在を受け入れなければなりません。
政治では、「赤の他人」も参政権や裁判を受ける権利を持っています。したがって、彼らの意見を完全に無視することもできません。
市場では、「赤の他人」と商品の売買をしなればなりません。交渉の際に言葉が通じないという状況は、非常に不便です。
法的には、「赤の他人」を殺して、自分の視界から消し去るということも認められません。
「赤の他人」の方から見れば、あなたもそういう存在になります。
「赤の他人」とのコミュニケーション
国家を運営していくためには、「赤の他人」同士のコミュニケーションが必要になります。
気心の知れた人とコミュニケーションをとるなら、「現代文」で扱うような長々とした文章は、不要です。他方、「赤の他人」とは、できるだけ誤解のないよう明確に、共通語でコミュニケーションをとらなければなりません。
その際、ある文章からどのような情報を読み取るかについて、筆者と読者との間で、一定の共通認識が必要となります。その共通認識は、できるだけ多くの人が持たなければなりません。共通認識が人によって異なると、「赤の他人」同士のコミュニケーションが困難になるからです。多くの人が持つ共通認識は、「常識」と呼ばれます。
「現代文」の目的(の1つ)は、多くの人の間で、その「常識」を生み出すことです。
なお、ここで注意すべきことは、あなたには何が常識なのか1人で決める権利が無いということです。この点に、「常識」の危うさがあるように思います。
現代文のルール
私が個人的に考えている現代文のルールは、以下のものでした。
- 筆者が書く間に何を考えているかは、どうでも良い。
- 語句は、意味が分かれば良いというわけではない。
筆者が書く間に何を考えているかは、どうでも良い。
筆者は、「赤の他人」です。したがって、筆者が書く間に何を考えているか読者が知るはずがありません。読者は、書かれたことを読むだけで良いのです。
仮に、書かれたこととは別に筆者に伝えたいことがあったとしても、「常識」から外れている場合、読者が理解してやる義理はありません。
語句は、意味が分かれば良いというわけではない。
「雨が降っている。しかし、傘を差さなかった。」
この文章は、語句の意味を知っているだけでは理解できません。2つの文が「しかし」と接続されている以上、この「しかし」が機能するように「常識」を補いながら読まなければなりません。「常識」の例は、次のものです。
- 傘を差さなかったのは、牛や馬ではなく、人である。
- この人は、傘を持っている。
- この人は、屋外にいる。
- この人は、手が使える。
- この傘は、日傘ではなく、雨傘である。
- 人は、一般に、雨に濡れることを嫌う。
- 「傘を差す」という行動の目的は、一般に、雨に濡れないようにすることである。
しかし、書かれている情報自体には、読者にとって大して価値がありません。このような事実の報告をされても、「だから何なの?」と思うでしょう。単なる事実報告以上の意味がこの文章にあるなら、さらに検討が必要です。
1つの読み方としては、傘を差さないことは、異常事態であるということです。すると、傘を差さなかったのはなぜかという疑問が生まれ、その理由を知ることが必要になってきます。
嚙み合わなさ
現代文で筆者の気持ちを考えなければならないというのは、逆に言えば、自分が書いた文章を他人がそのように読んでくれると期待してるということかもしれません。
しかし、残念ながら、そのような優しい人は、それほど多くはありません。